|
江戸小紋のルーツは武士の裃にあります。江戸時代、各藩の武士達はこぞってその藩専用の柄(留柄)を裃に使って、権力を誇示しあいました。遠目には無地、近づくと浮かび上がる溜息の出るような繊細な柄が江戸小紋の真髄です。
江戸時代中期に大名が裃に小紋柄を染めたのが始まりと言われ、その柄の細かさでおしゃれ度を競っていたそうです。
江戸時代、派手な着物を禁止した「奢侈(しゃし)禁止令」というのが出されました。それでもお洒落をしたい人々は、一見無地に見えるけれども、よく見ると細かい紋様が染められている着物を着るようになりました。これが江戸小紋の始まりと言われています。また、各地方の大名は裃にそれぞれの家の柄を決めて染めさせていたようです。昔は男女共用のお洒落だったのですが、いつのまにかすっかり女性のきものになってしまいました。この江戸小紋、柿渋を幾重にも塗った和紙を彫った「伊勢型紙」と呼ばれるものを型紙として使います。
江戸小紋の源である小紋型染めの歴史をさかのぼってみれば、足利
時代を一応の起源と見る事ができます。また江戸小紋の古典柄ということになると、はるか平安時代以前の成立となります。ともあれ、江戸時代・寛永年間(1624〜1644)に武士の裃の柄染として、急速に発達した江戸小紋は、日本の伝統的な小紋型染の中に咲いた美の極致、染めの花といえるでしょう。
江戸小紋の「小紋」とは、同じく江戸時代の大紋型染、中型染に対して非常に細かい模様であることから、小紋型染と呼ばれていたことに由来した名前です。大紋とは武家の家紋を染め出すものであり、陣幕、旗などに用いられた。武士の広袖の衣装に家紋を染めたものを「大紋の衣装」といいます。紋の大きさは、直径23センチ以上でした。
これに対し比較的狭い部分、武具の革所や家地などに型染するため、直径12センチ以内のいわゆる小紋型が考案されました。武家の衣装に家紋を配するのは、装飾以上に権威の誇示、権力の象徴という目的があったためで、いかに小紋といえども大紋に匹敵する格式を持っており留柄として大名が占有し、許可なく他の武士に使用させなかったのです。このような発生を持つ小紋型染は、糊置きをする長板染などの技法の急速な開発、元禄(1688〜1704)の爛熟した文化的精神風土とあいまって、江戸中期ごろより庶民のものに男女の区別無く使われていくようになりました。
「極鮫(ごくさめ)」…紀州家、「松葉」…徳川家(御召小紋)「十字」…
徳川家(御召十)、「大小霰(あられ)」…島津家、「胡麻」…鍋島家、「竹田菱」…武田家、「菊菱」…加賀前田家このようにして武家に発達した小紋は、当然のことながら格式が高く、一般庶民のきものの柄としては、恐れ多いということで使用されませんでした。しかし、江戸時代も半ばを過ぎると社会全体に厳格な気風も薄れ、元禄時代の爛熟期を迎える頃になると、小紋は庶民のきものの柄として大流行していくことになります。
伊勢で彫られる型紙江戸小紋の柄の特徴は、何といってもその繊細さにあります。一見、無地と見まちがうほどのこまかい柄です。その微細な柄が規則的な配列をもって生地全体を埋め尽くし、小粋な一色染で、きっちりと染めあげられているのです。たとえば「七宝」「麻の葉」「亀甲」などは?牾笋發劉瓩箸いΔ?、約三センチ四方に柄がいくつはいるか、ということから割り出していきます。たいてい数十から数百、きわめて繊細なものになると千を越します。しかも、その型紙はすべて手彫りであります。
江戸時代より今日に至るまで、型紙の産地は一貫して紀州・白子(現在の三重県鈴鹿市白子町)です。この地は江戸時代、徳川御三家の一つ紀州家の領地ととなり、その保護の下に独占産業として染型紙製作の振興、奨励が行われました。そして、生産された型紙は「紀州御用・伊勢型紙」と染め抜かれた提灯、通り切手をたずさえた型紙商人によって、全国津々浦々まで行商されていったのであります。 |